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スイスへの引っ越し
これが私のスイス旅行記の最初の章となります。2005年8月15日、私はエレクトロビット AG(エレクトロビットグループのスイス支店)で働き始め、少なくとも現時点の契約では2006年の2月まで働く予定になっています。私を知らない人のためにいえば、私はフィンランド(私の母国)の外で仕事を探して何年かが経ちます。テレコミュニケーションとマイクロウェーブ&RFに特化した物理学修士号を持っており、エレクトロビットグループに勤務して8年になるところです。エレクトロビットは多国籍企業なので、私は他の国の支店にも私の居場所がないかずっと注目してきました。今年の夏まではどういうわけか、期待できそうな見込みは全くありませんでした。
2005年5月末、エレクトロビット AGのマネージング・ディレクターから私に連絡がきて、スイスに私が働くためのポジションがあるかもしれないということでした。こんなとき他人の目にはたいていこう映るのでしょうか。業務はてんてこまいに始まり、その後忙しい日が2,3週間続き、決定が下るまでの間、大体数カ月はかかるだろう、その頃にはだんだん落ち着いてきて結果を待つことにうんざりしてくる、そしてあげくの果てには見込みは却下とくる。しかしながら、このスイスの案件に関してはすでに動き始めているように見えたのです。はや2,3週間の間に、私はエレクトロビットAGで2005年8月15日からスイスに転勤することに同意しました。
7月はほとんどが夏休みだったので、私はタイに2週間旅行しました。夏休みのあと、今やっているプロジェクトのため2週間出社するべきだったのですが、私の後に入った新人ができる限りうまくやってくれたので私はスイスへ発ったのでした。休みから戻った後の仕事は極めてゆっくりしたペースだったので、私はプロジェクトのRFの課題はすべて新人と共同で終わらせるために良い時間を過ごしました。あの後、彼がたくさん学んでくれて今後私を悩ますようなことがなければ良いのですが。今週はあまり連絡がないので、すべてがただ淡々として過ぎていくでしょう。
スイス行きの航空券を購入するにあたって、いくつか混乱がありました。まず、私はエレクトロビットAGの人事部(彼らは人事よりもかなりいい仕事をするが、それにみあう呼称がないので、以後ヒューマン・リソースパーソンと呼ぶことにする)と、彼らが航空券を購入して私に送ってくれるということで同意したのです。出発日の一週間前に私が航空券について尋ねた時、航空券はまだ購入されていないと言われました。私は急いでインターネットでいくつか航空券と価格を調べ、自分で手配したほうが簡単に思えました。私にとっての最適ルートはSAS航空Blue1のコペンハーゲン経由、オウル発チューリッヒ行きでした。難点は、スイスのヒューマン・リソースパーソンにとって、飛行機が到着するのが勤務時間外だったので、私はフィンランド航空のオウル発ヘルシンキ経由を予約しました。私にとって大変だったのは、朝6時発の飛行機なので、時間どおり空港に着くためには朝早く起きなくてはいけなかったことでした。(フィンランド時間で午前4時、スイス時間で午前3時)。
ヘルシンキでは極めて短い乗り換え時間でした。たった35分。次の飛行機に急いで乗り込んだ後、(そして荷物も一緒に間に合ったことを祈りつつ)飛行機はしばらくするとゲートから動き出しました。そして多分10分位後でしょうか、飛行機がバックし、キャプテンがエンジンが始動を拒否している旨をアナウンスしましたが、それほど大事ではなかったようでした。だいたい1時間ほど座りつづけたのち、飛行機は再びゲートのほうに動き出し、今度はエンジンも始動しました。そういうわけで私たちはチューリッヒに予定より1時間遅れで離陸しました。
チューリッヒ航空に到着したのち、ラゲッジの受け取り場所まで歩きラゲッジが来るのを待ち始めました。私は他の国に引っ越しをするわけで、かなり重い手荷物のセットを持っていただけでなく、私の荷物の中身はかなりたくさんの物が入っていました。しばらく待ったあと、ヘルシンキでの次の飛行機への荷物の引き継ぎ時間が短すぎたのではないかと不安になってきて、私はロストラゲッジのデスクまで這うように歩き始めました。他にも何人か同じ方向に歩いていて、列を作っていました。クラークは私たちに気付くと、ヘルシンキからの荷物を探したらまだ荷物が残っていたので、近々届くかもしれないと言ったのでした。私たちがラゲッジの場所まで戻ると、そこには新しく着いた荷物がいくつかありました。でも私のではなく他の人のものでした。私の荷物は依然紛失したまま、ということでデスクに再び引き返しました。
ことのいきさつをクラークに説明したあと、彼女は実際コンピューターを見ると、荷物はまだヘルシンキにあって今夜遅くのフライトで着くだろうと言いました。彼女はそれが午後7時のフライトなので、荷物が手元に来るのは明日になるともいう。私はそれは納得がいかない、なんとしてでも引っ越したら荷物が全て揃っている様に今日中に荷物が必要だと言いました。彼女はそれはできないというので、今日中に荷物を受け取るためにはどうしたらいいか彼女にたずねました。実際私もその時点でアドレスは知らなかったのですが、彼女はエレクトロビットのヒューマンリソースパーソンに荷物をどこに届けたらいいかを電話でたずねました。そして再度今日中に荷物を受け取るのは不可能であることを確認しました。私はただもう荷物をタクシーに積むようにたのんで、運転手に住所を伝えました。彼女は誰かに電話をし、それは可能だが、70ユーロほどかかるし私が半額払わなくてはいけないと言うのでした。
私はきょとんとしました。考えてみてください、彼らは私の荷物を紛失したうえに、荷物を配達するための費用の一部を私に払うように言っているわけです。私はほかに手段がないのかたずねましたが、彼女はそれしかないというのです。私は後でタクシーに乗って自分で荷物を取りに来れるかどうかを聞きました、そしてそれは可能だがしかしその費用は払わない、一番やすい交通手段だけ払うと彼女はいうのです。電車を使えば夜一日が空港への行き帰りでつぶれてしまう、だから電車は問題外だし、タクシーを使えば私が払わなくてはいけないだろうし、これもばかばかしい。そして私は次の飛行機が着くのをまって荷物が今日中に受け取れるかどうかを確認するべきだと思いました、すると再び彼女が、それはいいけどとんでもなく長いこと空港で待つことになるといいました。私はこの状況に少しムカついてきましたが、荷物は欲しかったので交通費の半額出すことに同意をして、エレクトロビットのオフィスに行くために駅に向かったのです。
電車に乗ること40分、オフィスからとても近いブビコン駅に到着しました。電車に揺られている間、電車からみた風景は野原と森いっぱいのとても田舎らしい景色でした。ほとんどそれらが何かは分かりませんでしたが、すくなくともとうもろこしがあったであろう野原はまるで、私が野菜を食べすぎようとしないように、それが私のお皿にあったとしても気づかないような感じでポツンと野原にいました。私が駅に着くと雨が降っていたが距離的にはたった2、3百メートルだったのでたいしたことではありませんでした。駅から北口に出て、オフィスがあるだろう方向に歩き始めました。少し歩いたら、見慣れたものは何もなく、私は細かい通りがどこにあるか、何人かの人にたずねました。彼は進んでいるのと同じ方向を指さしたのですが、何百メートルもの間、オフィスのサインはありませんでした。もうちょっと進んだ後、いくらか濡れながらオフィスに到着し、あとでオフィスから100メートルの南口を使えば良かったことに気づいたのです。
A view from Elektrobit's office
オフィスでは人事の人が私を待っていて、オフィスのまわりを簡単に案内してくれました。その後、彼女の車で荷物を置きに私のために予約されたアパートまで行きました。前に同意した時にはエレクトロビットがスイスでの最初の30日間はそれなりのアパートを提供してくれるということだったので、私はその間のアパートを自分で探さなくてはなりませんでした。このエレクトロビットが提供してくれたアパートはブビコンから3キロのところにあるスタジオでした。スタジオは私用のおよそ12~15平米分と、台所などのほかの4人の居住者との共同スペースが含まれていました。少なくともそれは素晴らしくて立派で、共同住宅にしては驚くべききれいさに保たれていましたが、80平米のアパートから越してきた者にとっては少々せまく感じられました。
アパートに私の荷物を置いたあと、私たちは推測するに何か居住関係か移民手続き関係のオフィスに向かいました。名前は思い出せないが、もし思い出せても解釈できないだろうし、その場所が何だったのか本当に思い出すことができません。知らないかもしれないが彼らはスイスでは複数の言語を話すが、チューリッヒに近い地域ではおもに彼ら独自のドイツ語をしゃべるのです。私は5年間学校でドイツ語を勉強し、そしてドイツ語が堪能な大学の先輩と、時々ふざけてドイツ語でちょっとした会話をしたりするので、私は地元の人とある程度の会話はできるはずなのです。
オフィスでは、私は居住許可申請の用紙を書きました。その後、私たちは2つの異なる銀行に行って、どういった口座を開いてくれるのかをたずねました。ひとつは国際的で規模の大きいのですが、もうひとつの規模が小さいほうはすべてにおいてもっと融通が利きそうだったので、私はダイポストという小さい規模のほうに決めました。決めた後、私は自分で銀行に行き、カウンターのそばの女性が英語を話せなかったので、なんとかドイツ語だけを話して口座を開設しました。2,3日たった後、まだ銀行口座のための書類が届かなかったので、私は会社にどの口座に給料を払えばいいか知らせるため銀行に電話して口座番号を聞かなければならなりませんでした。再び私はなんとかドイツ語ですべてやり遂げることができたので、多分私は例え人事の人が助けてくれなくても、自分でやりぬくだけのいくらかの能力はあるはずです。
A view from the Rüti apartment
あまりよくない朝のあとは、物事はかすかに明るく見えたのでした。ブビコンから私のアパートまでのバスの接続はただ素晴らしく、しかしながらもう少し本数がたくさんあってもよい。また、電車もいい具合にブビコンから私のすんでいる同じ村まで通っていましたが、バスは私のアパートのそばでは止まらないし、電車の駅からの距離はおよそ1キロなので、バスを使うよりはだいぶ賢い選択です。家に着くまでの途中、私はドイツの地元の店でドイツ語の読解力がよくなるようにドナルドダックの本を買いました。オフィスでの初日以降、私はいつ彼らが私の荷物を運んでくれるだろうかと家に見に帰りました。実際、彼らが配達のためにアドレスを聞いた時空港から電話してきたマリアンを除いて、彼らは私の番号もアドレスも知りません。私は彼女に運転手に渡すために50CHF渡していましたが、文句を言って、返金を頼むことにしました。しかし彼女は夜遅い時間に電話してきて、荷物はまだ彼女のもとに届いていない、そして彼女はもう寝るということでした。いい知らせではないが、私にできることは何もありませんでした。
二日目のオフィスでは特別何も起こりませんでした、ただ場所や人を覚えてきて、また少なくともパートタイムで働くであろうプロジェクトにいくらか慣れたのでした。スイスのITサポートの男は、私がエレクトロビットのフィンランド支社からコンピューターを持ってきて、スイスのネットワークで機能しないという手違いが沢山あってたくさん私を助けてくれました。馬鹿げたことに、私はコンピューターにおいては管理職ですが、私はコンピューターの設定を変えることができなかったのです。その代わり、私たちはフィンランドのサポート部に設定の変更をするため電話しなくてはなりませんでした。何回か試したあと、私たちはすべて機能させることができました。また、私はインターネットの接続を私のアパートにも繋げるように申し出たので、私はオンラインゲームと、インターネットをするためのいくつかの方法を知っていなければなりませんでした。私は自分のWLANカードをスキャンして、その場所のWLANホットスポットを開いて表示させましたが、信号レベルはたいてい弱すぎて接続不可能でした。偶然私はなんとかインターネットに長く接続できたのでした。
その夜遅く、アパートに着いたあと、荷物紛失届の番号に書いてあった空港の番号に電話をしました。そこにはいつかの自動アンサー装置があって、てきぱきと紙に書いてある番号をコード入力させるものでした。それはなにかドイツ語で話していて、私は荷物が午後6時に届くと言っているのだと思いました。私はもう一度電話すると、その装置は何も入力することもなく誰かに繋がれました。私の事情を話したあと、その人は私の荷物を持っていて、次の日に届きますといいました。私はもう堪忍袋の緒が切れるところでした、それは彼らが私の荷物を月曜に受け取り、そして今それを40キロある場所に届けるまで何日かかかるというわけです。私はかなり深刻な口調で私は荷物が必要で荷物が同じ日にほしかったことを訴えました。また、それは私の住所に届くはずで、私が知っているマリアンの住所ではないと言いました。彼女はどこかに電話をかけにいき、そのあと彼女はその荷物は午後6時から8時の間に届くだろうといいました。時計はおよそ午後5時半、なので私は地元のスーパーにいくらか食べ物を買いに行き、時間どおり荷物のために戻ってきました。 私は午後8時15分まで待ちましたが荷物はなく、私はチューリッヒオフィスに話そうにももう閉まっていると思いました。
私はどうにかインターネットをつなげて、いくつかのフィンランド航空のサービスの番号にかけました。それらのほとんどはフィンランド時間がとても遅かったので返答がありませんでした。チケット売り場の番号は24時間営業だったので、私は電話をし、事情を話しました。彼らに電話をかけると、彼らは私の話をきいたあと、チューリッヒに状況をはっきりさせ私に折り返すために電話をしました。2,3分後、かれらは私にかけなおしてきて、荷物は今日届くだろうということと、顧客が払わなければならない規則に反しているから私は一切払うべきでないということでした。この電話の間、スイスの番号が私にかけてきていました。フィンランド航空の担当局との電話を切った後、私はスイスの番号にかけなおしました。その人は配達について何か聞こうとしていた配達人だったようでしたが、難しいドイツ語方言だったので私は完全に会話についていくことができませんでした。 この電話の2,3分後、他のスイスの番号が電話してきて、こんどはチューリッヒ空港の担当局でした。彼女は配達人が電話してきたらかならず電話に出るようにと私に告げました。私は彼女に、彼にただちに折り返すと言ったのに、彼女はひたすら電話にでるようにと言いました。おそらく彼女が午後9時から11時の間の遅いじかんに彼らが荷物を届けるだろう旨の電話をフィンランド航空から受けたのでしょう。私は了解して、彼女は再び電話に出るようにと私に言いました。
Scene from the Zürich downtown
午後11時15分まで待った後、フィンランド航空にもう一度電話しようとしましたが、フィンランド時間はもう遅かったのと、番号は切られていたのでした。再びチケット売り場に電話すると、誰かに電話する必要があると言われました。彼は私に明日電話するほうがいいと言おうとしていたのですが、私はこれ以上待てないと言って何が起こったか話しました。彼は私の緊急事態をわかってくれ、私の番号に電話をかけさせる誰かに伝えておくといいました。何分かして再び電話がきて、その男にことの一部始終を話しました。彼は何をすべきか考えようとしましたが、チューリッヒ空港は夜間で閉まっていて開くのは翌日の朝だろうから彼にできることは何もありませんでした。彼は私が待ちぼうけしないように、朝までに荷物が届かなかったら、朝一番で電話をするといいました。
夜中の12時半、私の電話が鳴りました。誰かがドイツ語を話していて、彼が荷物をいくつか持っていて、白い大きなビルの隣にいるけど合っていたのかわからないと言いました。私は下まで降りて行くと、荷物はありました。うれしい再会です。私は紙にサインをして荷物が無事なのを確認すると、睡眠にもどりました。私はまた苦情の用紙をフィンランド航空に書かなければならないだろうけど、荷物を正しい便に運べなかったことには責任をとってくれました。その他のこのばからしい苦闘は、どういうわけか荷物を時間どおりに届けられなかったスイスの配達システムによって引き起こされました。私はこの苦情に決着をつけるつもりですが、次につながるかどうかには不安がつのります。
空港からブビコン行きの電車がチューリッヒに着いたとき、私はこの眼でその街をちらりとも見たことはありませんでした。なので、私は金曜日にチューリッヒを訪れる計画を立てました。金曜日、いくらか仕事場で過ごしたあとある人が会社のサマーパーティと10周年記念パーティに参加するかどうかを聞いてきました。誰も私にそういうイベントのことは言わなかったので、私は計画を変更しなくてはならなくて、チューリッヒには次の朝行くことにしたのでした。仕事の後、私たちはあるレジャー・スポーツ施設に行き、お互い競いあったりしながら食事したり飲んだりしました。その日の夜、私は会社の中国人のメンバー、ジュアンといくつか会話しました。彼はここチューリッヒで勉強していて、エレクトロビットでインターンをしているとのことでした。(もし私の覚えが正しければ)。それは楽しい会話で、私はいくらかアジア文化に興味があり何年か前には中国語のコースもとっていたし、ここ2年間はまた日本語も勉強しているのです。
そして、土曜日の朝、私は電車でチューリッヒを訪れました。私は街を歩いてまわって、そのような大都市にしてはとても素晴らしい景観でした。ひどい汚染とゴミゴミした最後に旅したタイのバンコクに対し、この街の第一印象は清潔で開放感がありました。私はダウンタウンエリアが、スエーデンの首都ストックホルムのある場所に似ていることに気づきました。ある古い街並みの歩行者用スペースを歩いているとき、ドイツ語で話す人が誰もいなくなってそのかわり背の高い金髪のスエーデン後を話すスカンジナビア人だったら、私がストックホルムのガムラスタンにいたらなぁと思いました。ある本屋でハリーポッターの最新刊の英語版と日本のクロスワードパズル、スウドクを購入しました。このスウドクのむずかしいところは、私がルールをあらかじめ知らないことと、この本がドイツ語版であるところです。ちょっとした説明箇所がありましたが、何回もゆっくりしたペースで読むたびついに理解できたのでした。100ページはあるので、このパズルにいくらか時間を費やすことになるでしょう。
Another scene from the Zürich downtown
今日、私がこれを書いている2005年の8月25日、私はプロジェクトをいくらか進めるために出社しました、そしてインターネットでアパートを探しました。仕事場では、私はイスタンブールでトルコのレーシングがあることを忘れていました。幸運にもそれは一時間以内に始まるところだったので、私はいい仕事をして最初の2,3周を見に行きました、そしてその間インターネットで見たりしながら、仕事を終えたら最終を見に行きました。キミライコネンが勝ちましたが、彼にとっては残念ながらアロンソの1秒前に走っていたモントーヤが最後についていなくて、アロンソが即追い上げたのでキミはたった0,2ポイント差でチャンピオンになったのでした。もしキミが残りのレースで先頭をきり続けることができればそれは面白いものになるでしょう。
Funny teddy
物事は今や、最初の荷物をめぐってのごたごたに比べたらよい方にむかっています。ここにきて私が気付いた、いまだに何度も何度も驚かされ続けることがあります。ひとつは外を歩いているとき(チューリッヒを除いて)、多くの人が挨拶をしてきます。ただ外にいるだけでも、もし誰かに向ってあるいたら彼は「 Gruetzi」(スイスの挨拶、多分綴りが違います)というでしょう、たとえあなたが彼に以前会ったことがなくてもです。すべての人があなたに挨拶するわけではありませんが、驚くほど多くの人がそうするのです、そして良い考えだとおもって私はこれを受け入れようとし、挨拶にし戻ったのでした。私はたとえ彼を知っていたとしても誰も挨拶をしない場所であるフィンランドの精神でいたために、これは普通じゃないと思いました。フィンランドのほとんどの人はお互いに目を合わせるのを避けようとして、もし何かを言わなければならないときは、それは大惨事になるでしょう。しかし人々はお互いに無口なので起こりえないのです。
Eating at McDonald's
物事は今や、最初の荷物をめぐってのごたごたに比べたらよい方にむかっています。ここにきて私が気付いた、いまだに何度も何度も驚かされ続けることがあります。ひとつは外を歩いているとき(チューリッヒを除いて)、多くの人が挨拶をしてきます。ただ外にいるだけでも、もし誰かに向ってあるいたら彼は「 Gruetzi」(スイスの挨拶、多分綴りが違います)というでしょう、たとえあなたが彼に以前会ったことがなくてもです。すべての人があなたに挨拶するわけではありませんが、驚くほど多くの人がそうするのです、そして良い考えだとおもって私はこれを受け入れようとし、挨拶にし戻ったのでした。私はたとえ彼を知っていたとしても誰も挨拶をしない場所であるフィンランドの精神でいたために、これは普通じゃないと思いました。フィンランドのほとんどの人はお互いに目を合わせるのを避けようとして、もし何かを言わなければならないときは、それは大惨事になるでしょう。しかし人々はお互いに無口なので起こりえないのです。
横断歩道を歩いていると、ある奇妙なことがありました。2,3分後あなたが歩道を渡るかもしれなければ、すべての車はあなたが渡り終わるまで待っているでしょう。私は今までこのようなことは見たことがありません。そしてそれは一回二回でなく毎回起こるのです。舗道を歩いていた時、もしあなたが横断歩道に近づいていたら、車は少しスピードを緩めてあなたが渡りたいのかどうかを観察し、しかももしあなたが間違った方向(あるいは正しい方向)に進んでいたら車は止まるのです。びっくりです。
そして電話にはお金がかかります。私はヨーロッパ中部から北部はフィンランドよりも高いというのは知っていました、そしてそれらは一般的にフィンランドではとても安いのです。その時で、フィンランドで一番安かったのが一分3.5セントでした。(おおよそ一分0.05CHF)そしてここでは、一分0.4CHFが一番安いのでほとんど10倍の高さになります。月の修理代もとても高く、たいてい安いフィンランドにおいても15CHFから上へいけばきりがなく、さもなければ一番よくても修理代なしというところです。もしあなたがスイスでさらに長く契約を結ぼうとするなら、ただの携帯をもつことは可能です。しかし利益なしという契約を結んだときだけというふうには説明しません。しかしうってかわって、私の居住権は電話線をつなげることが契約上ゆるされていなかったのですが、電話代がただ前払いという、通常の契約よりばからしいものでした。私は電話回線のアップグレードの仕方を居住者オフィスの女性に聞こうとしましたが、アメリカでグリーンカードをとるのと同じくらい簡単そうでした。怠けものだと思いました。
今週は雨の日がとても多いです。地元の人々は雨が続くのはあまりよくあることではないというので、私は天気が良くなればいいなと思いました。実際この期間、2人が日曜の晩にこの雨による地滑りで亡くなったのでした。私は時々はこのページを書き続けるでしょうが、私があなたに伝えるべきことがあまりないことを願います。
私はいくつかの写真をウェブページに載せました、いくつかはこの記事のためのもので、残りのいくつかはどこを探してもないかもしれないでしょう。あなたはすべての写真を
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